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昭和40年、鬼石町に生れる。2人兄妹。母親は、群馬県安中市生まれだが、父親の生まれは、韓国。 親父のことが原因でお袋は、ほとんど親戚付合いをされていない。その親父も私が3歳の時にガンで死んだ、その時、妹は、まだ10ヶ月。 当然だが、親父と遊んだ記憶もなく、親父を肌で感じたこともない。 私は、生れながらにしての心臓病だった。(心室中核欠損大動脈弁閉鎖不全)手術をしなければ12歳までだと言われ、親父が逝った後の4歳の時、手術をした、運良く成功だったが身長はいつでも小さく馬鹿にされた。 親父が残した仕事が2つ、土木建設業と一般廃棄物収集業、お袋もがんばったと思うが土木建設業は、間もなく人手に渡った。 お袋が、衛生業を営むことで飯が食えたが、ガキの頃はいつも「うんこ屋」といじめられ、妹は、お袋にこの仕事をやめてくれと泣いて頼んだ。 行政からの許可事業という仕事の性質上、議員と役人には伏していた、子供ながらその姿を見るとき寂しさと悔しさを感じた。以来、威圧をするような議員、役人に不信感を持ち、議員や役人とは地域に対してどんな存在でなくてはならないのかを深く胸に刻んできたように思う。 女手一つで業を営み子供を育てる事は、並ではなかったろうと自分が親になった今、思うものがある、そのお袋の性格は、気丈にならざるを得なかった。いつも言われていたことがある、馬鹿になっても馬鹿にされるな、父親のいない子だからだと言って後ろ指を指されるような者になるなと。 高校3年の進路を決めようとする時、お袋が倒れた、卒業後は、就職を選択する他はなかった。3年間他人の釜の飯を食って家業に戻った。 決断 この程度で不幸だなんてとても言えた者じゃないしこれを売物にするつもりもない、私より辛い経験をしている者も沢山いる。 片親で鬼石町に身内、親戚が一軒もない自分は、どうすれば地域に受け入れてもらえるか考えた。 消防団をはじめとする地域活動には率先して参加した。 地域社会に対して若い世代の活動が、今一つ力不足で理解されてない様に思えた。 私は、私なりに、いつでも自分をぎりぎりのところへ追い込んできたのかもしれない、窮地に立たされそれを乗り越えることで成長したいという思いから。そして、地域のために何か出来ないか、私に何が出来るかを強く自分に問いかけた。 平成11年4月、鬼石町議会議員選挙初出馬。 地域が発展、成長することで自分も成長するために、またぎりぎりのところにたった。 この時、33歳。 お袋の死 気丈で厳しかったお袋も3年間ほど入退院を繰り返し、在宅介護のお世話にもなったが、平成16年6月享年72歳で逝った。 片親で育った者とすると親父も一緒に持って行かれたようだった。 これで正真正銘ひとりぼっちになったように思えたがそうでもない、女房も子供もいる。まだまだ積まなくてはならない人生経験も随分あると思うが、ある程度の経験は、させてもらった、ただの青二才ではないと自負しているところも恥ずかしながら持っている。 これからも地域のためになる 「大久保やすしろ」 として勇気を持って強く生きたい。 never give up Copyright (C) 2003-2006 Yasushiro Okubo . All Rights Reserved. |
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